前田高地

沖縄本島

前田高地の戦い概要


浦添城跡は、沖縄戦の激戦地のひとつだということをご存じですか。

その浦添城跡の東側に位置しているのが「前田高地」。
2017年に公開された映画「ハクソー・リッジ」(メル・ギブソン監督)の舞台になったことで、世界中にその名が知られるようになりました。
その後、映画の舞台を一目見ようと、たくさんの観光客が訪れるようになりました。
では「前田高地の戦い」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。
その概要について、まとめてみました。

前田高地とは?


40日間も続いた沖縄戦で、日米おびただしい犠牲を出した中部最大の激戦地が「前田高地」。
首里軍事司令部から北東に約4キロ、標高約120-140mに位置する前田高地は、首里地区防衛において、とても重要なエリアでした。
米軍にとっても、このエリアを奪取することが、朱里攻略そして日本本土侵攻への一歩として位置づけられていたのです。
そのため1945年4月26日からおよそ15日間に渡り、前田高地では激しい戦闘が繰り広げられました。
そして、日本兵約3000人あまりの犠牲を出した末に、米軍によって攻略されたのでした。

なぜ長期戦になったのか?
長期戦になった決定的な理由は、その独特の地形。
前田高地の北斜面にそびえ立つ石柱のような岩(米:ニードルロック)は、歩兵部隊でさえも縄ばしごを必要とするほどの絶壁。
そして、東200mの位置には130mの閉鎖曲線高地があり、さらにその南東250m先には高さ135mの高地が連なっていました。
このように、とても複雑なロケーションであった為、いずれも戦車が動きづらかったのも理由のひとつです。

前田高地が戦場に選ばれてしまった理由


皆様は、浦添市がどこにあるかご存じでしょうか。


那覇空港のある那覇市の北側に隣接する人口11万都市、それが浦添市。

1945年4月1日に、米軍は艦船1400隻、将兵54万人という大部隊で、海岸から上陸を開始します。
海岸のあるエリアは、北谷町(ちゃたんちょう)から読谷村(よみたんちょう)。
このあたりの海岸は、リーフに囲まれており、遠浅で、大軍が一挙に上陸するのは最適の場所。
そしてまた、日本軍の北飛行場(読谷)や中飛行場(嘉手納)があったから。

米軍が北谷町に上陸すると、南へと進撃を開始します。
途中、幾度かの戦闘が繰り広げられ、浦添市に至る直前には宜野湾市にある「嘉数高地(かかずこうち)」でも激しい戦闘が繰り返されます。
日米両軍が、嘉数高地、前田高地で激しく戦った理由、それは、当時の重要な軍事拠点の位置関係が深く関係しています。
地図をご覧いただくとよく解るのですが、北谷町から宜野湾市の嘉数高地、浦添市の前田高地へと直線的に進む南には、当時の日本軍の指令本部があった「首里城」が位置しています。
つまり、米軍が沖縄戦で勝利をするための必然ルート上に、嘉数高地や前田高地が位置していたということ。
浦添市にはそんな背景があり、必然的に前田高地が激しい戦闘の舞台とならざるを得なかったのです。

地獄と化した戦場


この「前田高地の戦い」、いったいどれほど激しかったのでしょうか。

前田高地は、琉球王国時代に「浦添城」という城があった場所。
急激な崖が天然の要塞の役割を果たしていたものとみられますが、1609年に城は焼け落ち廃墟となりました。
この急激な崖を持つ天然の要塞を、アメリカ軍は「ハクソーリッジ」(のこぎりのような尾根)と名付けました。
その名前からも、いかにこの場所が険しいところだというのが伝わってくるような気がします。

4月25日、米軍は前田高地への攻撃を開始します。
米軍は、まず高地頂上を奪おうと試みますが、頂上に立ったところで日本軍の攻撃を受け、数分で18名が犠牲となりました。
そこから日本軍との高地頂上の争奪戦が繰り広げられます。
米軍は日本軍との戦闘で多くの死傷者を出しました。
一方、日本軍は洞窟に陣地を置き、白兵戦や夜間攻撃などを行いますが、米軍の猛攻撃により多大な損害が出ました。
頂上付近を占拠した米軍は、日本軍の洞窟の入り口を破壊することで閉じ込め、追いつめていきます。
5月6日に前田高地は、米軍により完全に制圧され、日本軍は撤退することになります。
「ありったけの地獄を一つにまとめた」と表現される事から、いかに壮絶な戦いであったかが感じられます。
ー浦安市教育委員会の発行した配布物「前田高地の戦闘について」よりー

さて、映画「ハクソーリッジ」は、戦争に参加したひとりのアメリカ人兵士が、ヒーローに祭り上げられている。
しかし、映画産業をビジネスとして考えれば、それは致し方無いことだろう。
ただ、映画の中では語られなかった、たくさんの真実が、まだまだ封印されているように思われます。

沖縄の気候が影響したこと

沖縄の4月~5月の気候は、25℃前後。
しかし、本州に比べると湿度がかなり高い。
そうなると、戦場には死体がゴロゴロそこらじゅうに散乱していたことを考えれば、当然腐敗も早いでしょう。
おそらく、ウジがわいて、そこからどんどん腐敗した死体が散らばっていたのではないかと考えられます。
もはや、人間の原型をとどめない、ウジのわいた死体の山。
まさに地獄の戦場です。
戦争という、醜い争いにより、日米ともに、尊い命が奪われてしまったのです。

朱里高等女学校 瑞泉学徒隊

アメリカ軍が浦添まで迫るころ、そこに配置されていたのは朱里高等学校 瑞泉(ずいせん)学徒隊の生徒たちです。
4月24日宜野湾嘉数の最前線を突破したアメリカ軍は二日後の26日、浦添での激戦を展開します。
数日で戦争が終われば家にすぐ帰れるとの理由から中・北部出身の女学生は北寄りの浦添での看護にあたったのですが・・
しかしそこは戦闘の最前線でした。
残った記録によれば、半分顔のない負傷兵や傷口からウジがどんどんわいて死んでいく者・・
兵隊も看護隊も、もう生きているか死んでいるのかもわからないくらいヘトヘトで・・
まさに、もう、そこは、地獄。

このように表現されていました。
まだうら若き10代の少女たち・・どんな思いで看護にあたっていたのだろうか。

さて、ここまで「前田高地の戦い」の概要について案内してまいりました。
沖縄戦は知識として知っていても、意外に知られていなかったのが「前田高地の戦い」だったのではないでしょうか。

「前田高地」動画

【前田高地】沖縄戦の跡地に行ってみた①【4K】

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